第11回 天草レキバナ会(天草の歴史と昔話を学び話す会)

下浦石と石工達~石の文化を支えた男達の物語~
講師:田口了一氏
(郷土史研究家・アートプロ代表)

2017.7.5
天草宝島国際交流会館ポルト
主催:天草レキバナ会


今回も満員の盛況となりました。ありがとうございます!
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第11回のテーマは「下浦石と石工達~石の文化を支えた男達の物語~」 

下浦は天草上島にある旧下浦村です。この村に浪人松室五郎左衛門が住着き石工技術を伝え地元で産する下浦石を採石販売したのが下浦石産業の始まりといわれています。現在でも二十六軒ほどの石工石屋さんがあるそうです。

この下浦の石産業の歴史を見ることは単に下浦だけの話ではなく、地域産業がどのようにして生まれ発展していったかの指標になると考え非常に興味深いテーマと思っていました。

下浦の石産業発展の理由として
1、原料となる下浦石は砂岩で柔らかく加工しやすい
2、江戸明治の船が運搬の主力の時代で下浦は対岸は天草下島の楠浦で不知火海有明海双方に出られる場所であったことが上げられます。

天草本渡の町山口川にかかる祗園橋は下浦石で作られています。今でも祗園橋は劣化した部分は新しい下浦石で修復されます。

修復したばかりの部分はコンクリートで修復したかのようなきれいな白色です。そこだけ違和感アリアリになるのですが、それが二、三年もすると黒っぽくなりしっくりなじんできます。そうして全体的に落ち着いてきます。

今後、祗園橋見るときは新しい石と元々あった石の色を注目して見てください。

それを考えると、できたばかりの祗園橋は白くてさぞ美しい橋だったのではないでしょうか。

この石の特徴は下浦石産業にどのよな影響をあたえたのでしょうか?

下浦の石工さんは分家して九州各地に広がっいったのです。しかし二代、三代と代を重ねると本家分家関係は途切れていったようです。                                      

当初は分家して下浦本家の支店や営業所的な存在であったと考えられますがその関係は維持されなかったのが下浦の石産業の巨大化を妨げた原因ではないかとの意見がでました(二次会で)

なぜ、本家分家関係は続かなかったのか?施工と営業は分家が行い本家が原料である下浦石を卸すことで関係の維持ができなかったのか?の疑問がでました。         

とりあえず感じたこと報告いたしました。


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500円。ぜひお読みください!
2017年07月07日更新